1.終わりに始まりを見る。

 

 

 文字を書き込むかすかな音以外は何もない、いっそ静かすぎるほどの教室で、二人の生徒が黙って問題用紙と向き合っていた。このプリントさえ仕上げてしまえばこの補習も終わる。しかし数式の羅列に、やる気はとうに失せている。二人は面倒くさいと書かれたような表情を隠そうともせず、ただ数字を並べては消し、を繰り返していた。
 ぺきん、と芯が折れる。機会を見つけたとばかりに、男子のほうが口を開いた。その目は席を立った教師が戻ってこないかと心配そうに扉に向けられている。
「……永瀬」
 短く名前を呼ばれて“永瀬”はゆっくりと振り向いた。
「なに、左藤。答えなら教えてやんないよ」
 “左藤”は「そーでなくて」と軽くため息をついてから“永瀬”をじっと見た。視線が合う。
「俺、来年……転校することになった」
“永瀬”の手から、水色のシャーペンが音をたてて滑り落ちた。
 夏休み中の、事だった。

 

***

 

 永瀬志保と左藤恭介は、中学一年生から高校一年の今までずっとクラスメイトという奇跡の仲だ。出身校が同じ生徒は多くても、こうも毎年一緒になるのは珍しい。実際、永瀬は左藤以外に、左藤は永瀬以外にこれほど長く同じクラスだった人はいなかった。
 最初は互いに異性の友人など特におらず会話も少なかったのだが、さすがにここまで一緒だと自然と話すようになるものだ。もともと気が合う方だったのだろう、一度打ち解けると言葉も増え、今ではすっかり友達の枠に収まっていた。  そんな馴染みの存在のことを、永瀬はぼんやりと思い出していた。楽しかった夏は終わり、すっかり夏休みボケからも覚めてきた頭の中で左藤の言葉を繰り返していた。
――……来年転校することになった
 あの日からもうすでに一ヵ月。新学期だって始まっている。何がこんなに気になるんだろうと思う。もちろん奇跡と呼ばれるクラスメイトであり友達なのだから、会えなくなると言われれば面白くない。思い返せばこの四年間、左藤とはほとんど毎日顔をあわせていたのだ。でもそれとは別に、何か嫌な気持ちがしこりとなっている。 (……こんなにアタシの中でひっかかりを覚えるのは、つまり?)
「アタシ、あんたのこと、好き」
 ガタンッ!! と大きな音とともに左藤がイスから落ちた。今回は図書委員の仕事のために放課後の教室に残っていたのだが、やはり二人しかいなかったので、やけに大きく響いた。
「……なのかもしれない」
「なんだよそれ……」
 なかば呆れたように、それでも少し照れた様子で左藤は姿勢を正す。したたかに打ちつけた尻をさすりながら咳払いをする、すこしばかり間抜けな左藤を、永瀬は特に心配をすることもなく見ている。
「だってあんたがいなくなると思うとなんか悲しいから。それって好きってコト? かなぁって」
 表情を崩さずにサラリと言ってのけた永瀬を、左藤は不思議そうに眺めた。
「かなってお前、なんで曖昧? 今までに好きになった奴……」
「いないんじゃない?」
 即答を受け、ため息をこぼさずにいられない左藤だ。さっきまでわずかに期待を持っていた目がすっかり力をなくしている。週ごとの来館者を記入したプリントの端を指で丸める。会話にズレと呆れが生じるのは、よくあることだった。それでも、なんとなく、とでも言うように告白されたのは初めてだ。
「それはただ5年も一緒だったトモダチがいなくなるからさみしいだけ! 恋じゃ、ない!」
 つまらなそうに紙をいじり続ける左藤に、永瀬は無表情のまましゃべる。永瀬に表情らしい表情があるときの方がすくないといってもいいのだが。
「じゃあさー左藤。あんたって、アタシのことどう思う」
 左藤の手が止まる。少しうつむいた頭は動かないままだ。互いに互いの言葉を待つような沈黙の中、カチコチと時計の音が聞こえた。いっそ他に誰かいれば逃げ場があったのかもしれない、と左藤はどうしようもないことを考えていた。
「……もし、もしだぞ。好きだったらどーすんだよ」
「つきあっちゃう」
 ようやくぎこちない動きで首を持ち上げた左藤に、永瀬は平然と答えた。悩みに悩んだ小さな声に対し、なんともあっさりとした返答だ。何を考えているのかと責める視線にも動じないのだ。左藤は長いつきあいの中で、お前という奴はと小一時間ほど説教でもしてやりたくなったのは一度や二度ではない。
「お前知ってるか? 俺の知ってる女の中でお前がダントツで変だ。自信を持って言ってやるよ、ぜってー変。こんな女が他にいるもんか」
 ふてくされたような顔で永瀬の顔を指差すと、またプリントに視線を戻す。「図書室利用者数について」と題された資料に数字や意見を書き込むようになっているのだが、さっきから進んでなどいなかった。そもそも、永瀬は頬杖をついて見ているだけで手伝う様子はない。しかしそれに気付いた左藤が束になった利用者アンケートを永瀬の方に押しやった。
「アタシに恋するオンナノコのいじらしさを求めんのは間違ってると思うけどなぁ」
 永瀬も仕方ないと左藤にならって仕事にかかるが、あきらかに面倒そうだ。委員がアンケート集計までしなきゃいけないなんて聞いてなかったと文句をこぼす。数学の補習授業には常連である、数字に弱い二人にとっては一番やっかいな作業だった。
「それにさ、基本的に左藤のこと嫌いじゃなかったし。むしろ好きかもしんないし」
「もうやめようぜ……この話題」
 永瀬は左藤をじっと見つめた。左藤がそれに気付いて慌てて目をそらすまで、黙って見ていた。そして不意に口を開く。
「決めた。左藤をアタシに惚れさせてみせる」
「はぁ?!」
 いきなりの大胆な宣戦布告に、左藤は思わず立ち上がった。イスは床を引っかいてひどい音を出し、プリントが数枚舞い落ちる。ここで初めて永瀬がニヤリと笑った。楽しそうにさえ見えた。
「転校すんのは来年の夏なんでしょ? それまでに告白させるんだ。できたら……そうだなぁ、学校のそばのラーメン屋でチャーシューおごってよ」
 呆れ果ててへなへなと力なく座ると、左藤はポツリと呟いた。
「できるわけねーだろ……」

 

窓の外では、2人をひやかすかのように太陽が笑っている。

 

 

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