『午後11時の嘘』

 

「鳥羽先生、ありがとね」
 消しゴムを意味もなく細い指でいじりながら、椎名(しいな)は言った。
 教室にかけられてる時計を見上げればもう11時前だ。僕は手に持っていたテキストを閉じると、眼鏡をはずして教卓の上に置いた。僕は塾のただの講師で、椎名アキはただの生徒だ。今日は授業後の補習で、数人を教室に残していたのだが、椎名は課題を終わらせることができずひとり僕と向き合うことになってしまった。どちらかというと解く気がない、というようにも見える。彼女は数学が苦手ではないはずなのに、その手はさっきからシャーペンを握っているだけなのだ。
「……何の話?」
「忘れたの? 先生が言ってた通りにしたらうまくいったんだよ」
 くすりと笑う表情はとても大人びているというのに、その顔自体は幼い少女のようだ。成長期の女の子というのはとても複雑な色気を帯びている。僕は椎名を見る度、よくそう思っていた。
「先輩も私のこと好きって言ってくれたの。ふふ、塾で勉強以外のことも教わっちゃった。上目遣いって効果あるのね」
 楽しげに話し僕の目を真っ直ぐに見てくる。だけど同じくらい強い視線を返す勇気はあるわけもなく、僕はできるだけさり気なさを装って下を向いた。確かに僕はアドバイスをした。そして少し、後悔をしている。
 あれは先週のこの時間、今と同じような状況だった時だ。
先生……ねぇ、教えて?
 誰もいない教室で女生徒にそう囁かれたところで、僕の理性は崩れはしない。相手が椎名じゃ、なければ。軽い目眩(めまい)を覚えつつ彼女を見つめる。だが椎名は、僕がどれだけ欲を孕んだ目を向けているかも気づいていないかのように「先輩に告白したいから、男の人が可愛いと思う仕草を教えてよ」と小首を傾げてみせたのだ。
 だから僕は、状況を利用して時折頬や髪に触れながら、自分の好みを椎名に告げた。
 大きめの瞳で悩ましげにそっと僕を見上げる椎名を見たその一瞬、一瞬だけ……彼女が僕のものになったような錯覚がしたのをよく覚えている。大きな間違いだというのに。
 彼女の人工的でない甘い香りを半端に知ってしまった。
 彼女の微かに上がった体温を指先に感じてしまった。
 後悔を先にできたらどれだけいいだろう。何度もそう思った。
「先生……?」
「ん……? あぁ、もうこんな時間だね。残りは宿題、次の授業までにやっておいで」
 顔を覗き込んでくる椎名から逃げるために、サッと眼鏡をかけ直す。彼女はしばらく僕を見ていたけれど、ひとつ溜息をこぼすと、持っていたシャーペンを筆箱にしまった。僕も席を立ち伸びをした。
「……ホントは目なんか悪くないくせに」
 ぽつりと呟かれた言葉にぎょっとして振り返った。椎名はすでに荷物をまとめ立ちあがっている。僕が彼女の目から逃げる手段としてこれを使っていたことを、気づいていたというのか。
「し、椎名」
「先生にも宿題だしてあげよっか」
 僕の言葉を遮って、椎名が近づいてきた。普通に会話をするよりも短い距離。少し顎を引いて、一度困ったように目を伏せてから、潤んだ瞳で見上げられる。
「……こら椎名、そんなこと僕にするもんじゃない」
 僕が彼女に教えた仕草だ。いったいどういうつもりだと眉間に皺を寄せる。すると彼女はころりと表情を変え、冷たい笑みを見せた。
「女の子はウソをつくのが得意なの」
 驚き息をつめた瞬間、ふわりと頬に口づけられた。
 たった一秒の出来事。瞬きをしたあとにはもう椎名は教室を出ようとしていた。
「……椎名っ」
「宿題だよ、先生」
 私がついたウソは、どれだと思う?
 そうやって妖しく微笑むと、椎名は身をひるがえし廊下を走って行ってしまった。
 僕は度の入っていない眼鏡をもう一度はずした。子供のくせに生意気な手を使う。けれど、その子供に完全に囚(とら)われた自分はなんて情けなくて格好悪いんだろう。
「その問題はちょっと難しすぎるよ……」
 小さく言ってからうなだれた。

 

 僕はどうしてこんなにも、彼女にまいってしまったのだろうか。

 

fin
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結構前にらくがいた短編。下手なくせに好きだよね、教師と生徒…(苦笑)
正直鳥羽くんちょっとしかしゃべってないな!
さぁ椎名のついた嘘はなんだったのか…
告白したこと?好きだと言われたこと?
それとも、全部…?  

 

(2011/9/7 加筆修正)
沙久