『言葉は胸に、君に笑顔を』

 

「……あれ、何だ今日はみんないないの?」
 やっとの思いでセンター試験を終えた次の週、久々に部室に顔を出したというのに、そこには週間マンガをパラパラとめくっている不機嫌そうな顔の一年生が一人いただけだった。
(ま、コイツはいつも機嫌悪そうか……)
 そう思いつつ彼の隣の席に腰を下ろしす。ただ集まって騒ぐ、大して活動らしい活動をしていない文芸部だが、部室がこんなに静かなのは珍しかった。
「柊平先輩はレポートが終わってないからってサボり、志朗先輩はコンクールが近いからって兼部してる美術部のほうに缶詰……ついでにいえば、活動時間は終わったからみんな帰ったっすよ」
 面倒くさそうにそう言った後輩、石田爽(いしだ そう)はくあっと欠伸をすると、ついこの間まで伸ばしっぱなしだった前髪をかきあげようとして、最近短髪になったことを思い出したようだった。行き場をなくした手をしばらく睨みつけてから雑誌に戻す。
「いつもそんなの守らないくせに時々真面目になるのね……で、それならなんでアンタは残ってんの? 石田」
そ ーいえばもう夕方だったか……なんて机にひじを突きながらため息をつく。もうすぐ卒業だから出来るだけみんなと顔を合わせていたかったというのに、来るのが遅かったか。すこし寂しい。
「……アンタが」
「え?」
 広い部室を見渡して少し思い出に浸っていると、不意に石田が呟くように言った。返事は無いのかと諦めていたので突然の言葉に驚いていしまう。
「試験、終わったらしいし……アンタがくるかと思って。久々に顔出して誰もいなかったらさすがに可哀相かと」
 こちらを見ずにぶっきらぼうにそんなことを言うもんだから、思わず頬が緩んでしまう。短い付き合いの間にこの子が優しいことはわかってはいたけど、どうにもこの不意打ちの可愛さにはいつもほだされてしまうのだ。
「そーかそーか、ありがとね石田。先輩は嬉しいよ」
 短くなったばかりのキレイな黒髪に手を伸ばしくしゃりと撫でてやると、石田は嫌そうに首を振った。唇を尖らせるものの先輩に強く文句を言えないのか、無言のまま細い目で睨みあげてくるその様子は、なんだか猫のようでワタシは大好きだった。
――……ホント、かわいくて、好き。
「やめ、ろ、よ」
 黙って髪を指先でもてあそんでいると、とうとう小さく不満の声がもれた。
「ふふー、いやだね。ワタシ人の髪触るの好きだから」
 にっこり笑って今度は「うりゃっ」と両手でわしゃわしゃとしてやれば、呆れ顔の石田に手首を掴まれてしまった。しばらくにらみ合いが続く。
「……もうすぐ、ワタシいなくなるんだから。触り納めさせなさいよ」
「嫌っす」
「けちー」
 ぐぐっと力を入れても動けない。二つも年下のクセにこんなに強いなんて、男の子はずるい生き物だ。視線を合わせ続けていると突然ふっと優しい目をするところも、ずるい。ワタシのこと“うるさいセンパイ”としか思ってないくせに。
「石田、ワタシは前みたいに長めの髪の方が触り心地が好きよ」
 ぽつりと言うと、石田は意外そうに目をしばたたかせた。それもそうだ。
「いつも長いから切れって言ってたの、アンタでしょ」
「そうそう、見た目は短いほうが好き。……だから、この短髪の手触りも好きになりたい」
「……あ、そ」
 ため息をつくと、石田は下を向いてワタシの手首を掴んでいた手の力を抜いた。諦めたのだろう。自由になった両手で思う存分柔らかな感触を楽しむ。もうすぐ最後になるから、もうすぐ最後にするから、ちょっとくらい許して。
「アンタは――……」
 目線は上げないまま石田が口を開く。
「たまには名前で呼びなさいよ」
 かぶせるように言ってやる。チラリとこちらに向けた目だけで必要ないだろと訴えられたが、気付かないフリをして「聞き納めだよ、聞き納め」と笑ってやった。
「……もう帰りますよ、六時近い」
 だけど石田はそれを無視してワタシの手から逃げるように立ち上がった。さっきまで部屋いっぱいに広がっていたオレンジの夕日の光も消えてしまって、空はすでに薄暗い。楽しい時間も、あっという間だった。すぐに終わってしまう。高校の3年間だって、夕方みたいに、いつの間にか思い出になる。どうしてだろう。
「ボーっとしてたらおいてくから」
 引き戸の前で石田が振り返った。途中まで同じ道だからそこまで送ってくれるのだろうか。ちょっと待ってよと声をかけてから、ワタシはもう一度本で満たされた部室をぐるりと見た。
(初めて名前呼ばれたときも、この席だったな)
 ウチの部では基本的にみんな下の名前で呼び合っている。なのに入部してきたばかりの頃の石田は、名前どころか苗字すら呼んでくれなくて、嫌われてるのかと思ってた。それが突然、本当に突然呼ばれたときにはどきりとしたものだ。そう、不機嫌そうなあの低い声で――……
「……はるか先輩、遅い。もう先に歩いてっからな」
「!!」
 びっくりして振り返ったときにはもう石田はそこにいなくて、ワタシは慌てて部室から出ると鍵をかけてアイツを追いかけた。
「ちょっと、待って石田!職員室寄るから……っ」
 ようやく見えた背中を大声で呼び止める。すると石田はつまらなそうな目を肩越しに向けてきた。
「アンタも俺のこと苗字で呼んでばっかじゃん」
 一瞬、意味がわからなくてしばらくきょとんとしてしまった。確かに、石田のことは石田って呼んでるけど。……そんなこと、気にしてたの?アンタが?
「……そうだなー、もう少し仲良くなったら呼んだげてもいいよ」
「なんだそれ……けちくせぇ」
 ワタシが恥ずかしくて「爽」なんて呼べないことを知らない石田は「なんで俺ばっかり」とため息をついていた。ワタシがアンタ以外の男子の名前なんて平気で呼ぶのも、気付いてないのかな。
「だって似合ってないもん、その仏頂面に“爽やか”なんて字」
 ニッと笑ってやると、うるさいとデコピンされた。じんじんする額を押さえ「痛い」と言った。
 こんなふざけあいも最後になると思うと、ちょっとだけ、胸も痛かった。
「……卒業しても、また遊びにくるからね」
 静かな廊下にワタシの声だけが響く。石田はしばらくワタシをじっと見てからふわりと頭を撫でてきた。初めてされたからか驚いて「ぅわ」と声を上げてしまった。
「そーしてください。騒がしい先輩がいなくなると調子狂うから」
「騒がしくて悪かったわね」
 石田の本心の見えない言葉に心臓は飛び跳ねて、頬は熱を帯びていく。そんなこと言うと期待しちゃうから、やめてほしいのに……鼓動ばかりが、喜んでて。すぐ目の前の薄い胸に体を預けてしまいたくなる。そんなバカみたいなことを考えている自分が、ちょっとだけ可笑しかった。
「ね、もっかい名前、呼んでみて」
「しつこいな……」
 そう言いながらも小さな小さな声でワタシの名前を呟いた石田に、ワタシは目線を上げると泣きそうになるのを必死で堪えながら顔いっぱいに笑った。
 コイツの声で聞いたワタシの名前を忘れないように。ワタシのことを少しでもコイツの中に残すために。
 卒業までもう少し。
 言いたかった言葉はワタシが連れて行くから、せめてワタシのことを。

 

君の思い出の中に置いていかせて。
                                                       

 

 

fin
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おぅ、久々に長かったな…。部活動の最後の参加となった部誌に載せたものです。
なんとももどかしいとこで止めちゃってるけど、きっと両思いのはず。
敬語を使いきれないような、でもそれを許せる親しさが、好き。この距離間。
どうなるんだろうな…爽はちゃんと先輩の心に気づいてやれるんだろうか。
第二ボタンで無言の告白とか。
そういえばせっかくウチの高校学ランだったのに第二ボタン請求されてるヤツ見なかった…っち。

 

(2011/9/7 加筆修正)
沙久