2.目線の先は、ひとかけらの恋。奥深くに、愛情。

 

 

 だーるまさんがーこーろんだっ。
 誰かがそう言った。ぼんやりと見える、公園。見覚えのある景色。
 声の主は子供だった。くすくすと笑いながら自分のすぐよこを駆けていく。小学生くらいだろうか、男の子も女の子もだるまさんに夢中らしい。五感をフルに使って、正確には鼻と舌は使わなかったけど……自分が「永瀬志保」で、ここにいる子供たちには自分が見えていないことがわかった。ここは、なんだ? 首をかしげる。景色が傾いただけだった。
  恭ちゃんが動いた!
 また誰かが言った。少し離れて眺めていたら、さっき叫んだのとは別の子が大きな声を上げた。
  動いた人はオニと手をつながなきゃいけないんだぞ
 するとまた別の子が、
  ほら恭ちゃん、早く行きなよ
 声はどんどん増えていく。
  志保ちゃんも恭ちゃんと手つなぎたかったんでしょ
  仲いいもんね
  志保ちゃんは恭ちゃんにはよく笑うんだよ 僕知ってるんだ
  恭ちゃん、ちゃんとつなぎなよ
 もはやだるまさんも転んでいる場合ではなくなってしまった場を、永瀬はぼう然と見てた。そしてそのままポツリと言った。
「恭ちゃんなんてキライ……」

 目を開けると、公園ではなく見慣れた白い天井があった。起き上がってパジャマを脱ぎ始める。
 意味もなく、何かが頬を濡らした。

 

***

 

「おはよ永瀬っ。どした、ラブレターでもみっけた?」
 ぼんやりとした意識のまま振り返ると、そこにはクラスメイトの谷柚香(たに ゆずか)がいた。下足室で立ち尽くす永瀬を茶化すように肩を叩く。茶色の髪をゆるく巻いている彼女は明るい印象があり、その通り華やかで元気のいい女子だ。
「谷じゃん、おはよー。実はさぁ……」
「おっす谷。ちょっとどいてくれるか?」
 背の低い谷の頭の上に、ちょうど左藤の顔があった。自分が立ち止まっていることで後から後から人が詰まっていると気付いた永瀬は、歩き出せばいいものを、とりあえず靴を入れるロッカーにぺたりと身体を寄せて道をつくってみた。しかし「ゴメンねー」と朗らかに言い残してさっさと通っていったのは、谷だけだった。急いでいたのか、また教室で! と言い置くことを忘れない。結果、残されてしまった二人に、すぐには言葉が戻ってこなかった。
「……あのさ」
 先に口を開いたのは永瀬だった。左藤は足元にあった目線をあげる。永瀬は女子の中でも背が高い方なので、目を合わせるのが楽だった。
「なんか昔の夢見ちゃって。左藤でいいから聞きたいんだけど。……小学生くらいかなあ。多分同じ中学に進学したと思うんだけど、“恭ちゃん”って誰だか知らない?」
 左藤は目を丸くして、永瀬の顔をまじまじと見た。もの言いたげな表情だ。
「なに、その顔。どーせアタシは記憶力悪いよ」
 ふてくされる永瀬に、違いねえなと苦い顔で納得する。十分わかっていたつもりなのに呆れ足りない。永瀬にとって過去というのはとてつもなく軽いんじゃないだろうか、と時々思う左藤だが、咳払いひとつで気を取り直すと、まっすぐに視線を向けてくる永瀬にしみじみと言ってやった。
「……かわいそうにな、恭の奴。あいつお前のこと好きだったのに」
 ボトリ、と上靴が落ちた。しかしそれは永瀬のでも左藤のでもない。二人はすでに履いていたからだ。音は後ろから聞こえた。
「なにそれ。左藤君、それ本当……? 今も、好きなの?」
 二人そろって後方に目を向けると、小柄な男子が立っていた。これまた、クラスメイト。もうそろそろ教室に向かわないと時間が、と思いながらも、今朝は下足室でとことん誰かを足止めしてしまう永瀬だった。自分とそう変わらない、下手をすればもっと細身にも見える彼を覗き込む。
「是俣(これまた)……なに、そんなに驚いてんの?」
 永瀬の質問には答えず「おはよう永瀬さん」とだけ言って、是俣新夜(しんや)はもう一度左藤に向き直った。
「ねぇ、どうなの? 大事なことなんだけど」
「大丈夫だって、昔の話だから。でも是俣、お前……そうかそうか」
 薄く笑った左藤の顔は永瀬には見えなかったが、是俣の大きめのメガネの下の瞳が一瞬ゆれたことには、気付いていた。どうせ左藤が変な顔でもして、笑いを堪えたのだろうと結論づけて。

 

 是俣と左藤の視線だけがぶつかる戦いを横目で見やりながら、永瀬はあくびをして教室に入った。
 恭、恭、恭……。だれだっけ、とぶつぶつと口の中で呟きながら自分の席に辿り着く。右隣に座っていた男子が不思議そうにこちらを向いて、妙に納得したような顔で視線を逸らした。
「ねえ左藤。やっぱりわかんないよー……」
 振り返るとそこには左藤の姿はなく、代わりに谷がいた。
「……永瀬ぇ、私左藤と結婚してないよ」
 笑いしながら背中をバシンと叩いてきた。永瀬はまだ驚いている。目だけで探すと、左藤は窓際にある席で是俣と何か話していた。教室の真ん中にいる永瀬からは少し、遠い。谷はまだ来ていない別の生徒の席に腰をおろすと、永瀬も早く座ればと促した。
「ふふん、左藤夫人もいいけどね。どうせ呼び方変えるんなら柚香ってのがいーな」
 どこか嬉しそうでもある谷は指先に髪を巻き付けながら笑う。勢いに押されたままの永瀬は、そのままこくりと首を折った。谷は数少ない仲の良い友達だ。名前で呼んでと言われてもなんら抵抗はない。
「んでんで、左藤に邪魔された話。なんだったの?」
「ん。たぶん、昔の夢見たんじゃないかなって。みんなで遊んでて……」
 見覚えのある公園。笑顔の自分。ひやかしの声。そして――……
「“恭ちゃんなんてキライ”……ねぇ」
「自分が言ったってことは覚えてるんだけど」
 ふむ、と大袈裟に谷が頷く。腕まで組んで見せて、声音以上に考えこんでいるポーズだった。まあ実際考えているのかもしれない。
「永瀬、まさかとは思うけどその恭ちゃんって……」
「谷、ちょーっと永瀬かりていいか?」
 柚香がニヤリと笑い身を乗り出すと、後ろから口元を引きつらせた左藤が割って入ってきた。是俣との話は終わったのだろうか、そういえば左藤の席は柚香が今座っているところの隣だったな、と永瀬は黙ったまま思考を巡らせる。口を開き忘れていると言ってもいいほど、それはクセになっているようだった。  柚香はしばらくきょとんとしていたが、左藤の顔をまじまじと見ると不敵に笑ってみせた。
「そーお、ふーんがんばるねえ、さ・と・う・ちゃ・ん。隠しておきたいことでもあるのー?」
 楽しそうな谷と、硬い表情の左藤。そして難しい顔の永瀬で、なんともひんやりとした空気ができつつあった。永瀬はただ、何も言わない左藤の背中を見つめている。

 

 

…………………………
是俣の命名動機を言うならば、下書きでは彼の名前が出る直前に「これまた」という言葉があったから←
だ、だってどうしようか決めてなかったんだ、ちょっと遊び心で変換してみたら名前になったんだ…

 

 

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